類は滅びない!?
険はひそかに忍び寄ってくる
たちにできること

この題は、アメリカの有名な小説家トム・クランシーの小説「今、そこにある危機」(原題 Clear and Present Danger)からの援用です。小説では危機の内容が権力者の倫理観の欠落というようなものとして話が構成されています。何年か前にハリソン・フォード主演で映画化されていますので、本は読んでなくても映画でご覧になっている方も多いと思います。
ところで私たちのまわりには、内容的には全く違うものの、もっと深刻な危機が横たわっているような気がしています。

類は滅びない!?
人間の都合で野生動物たちが次々と消えてゆく。今、地球上では1年に1種類の動物が絶滅に追いやられている。
最近、私は少し大げさかもしれませんが、人類という種は種としての成長がすでに最盛期を過ぎ、衰退期に入っているのではないかと思うことがときどきあります。日本を筆頭に先進諸国では出生率が年々減少し、この21世紀には今まで経験したことのない少子高齢社会が訪れます。一方アフリカなどの開発途上国では、相変わらず爆発的な人口増加が起こっています。この持てる国の人口減少と持たざる国の人口増加というアンバランスは、さまざまな深刻な問題を引き起こすことが予想されます。

もし、人類がこれまで地球上を支配してきた種の中では、段違いに高等生物であるから滅びないと考える人達がいるとすれば、それは大変な思い上がりでしょう。なぜなら私たちは過去のことは知り得ても、未来のこと――50年、100年の単位でなく500年、1000年といったオーダー――を予測することは非常に困難だからです。地球が誕生したのは今から約46億年前といわれています。これに比べて人類の誕生から今日までの時間など、ほんのまたたきにしか過ぎません。したがって、将来人類を上回るような知的生命体が地球に出現する可能性を否定することはできませんし、おそらくは知的生命体でなくても例えば、地球の環境が大きな変化を遂げたとき、人類がそれに対応できずに滅び、代わってその環境に合致した生命体が地球を支配することは十分起こり得ることなのです。

険はひそかに忍び寄ってくる
人間は地球環境の重要な構成要素である森に寄生しながら生きている。その緑を人間は自らの営みで消滅させつづけている。酸性雨で枯渇した痛々しい木の残骸の風景に、もはや鳥の声もない。
さて、生命の進化の必然としていつかは人類が滅亡する日が来るとしても、だからといって、現在の私たちがなにをしてもいいということにはなりません。少しでも滅亡する日を遅くするために、私たちはどう対応すべきなのでしょうか。もちろん私たちの世代でどうこうということはないでしょう。子供や孫の時代でもたぶん目に見える変化は起きないと思います(専門家の間では、21世紀に人類滅亡の危機がやってくるという推測がいわれていますが)。しかし、私たちは人類の将来に対して責任を負っているのです。今、目には見えないけれど確実に存在する危機を放置しておくことは、極論すれば人類としての緩やかな自殺行為にほかならないといっても過言ではないと思います。

では、確実に存在する危機とは一体どのようなものなのでしょうか。いくつかあると思いますが、そのうちの大きなひとつに、人類が文明と称して侵し続けてきた自然に対する破壊があると考えられます。

人類に限らず動物は、一部の例外はあるにしても、それがなければ生存できない「酸素」を自己で再生できません。ひたすら消費し続けることによってのみ存在を許されるのです。つまりその酸素を排気として生産してくれる植物という存在がなくなれば、当然同時に滅びるのです。このことを理解している人々がいったいどのくらいいるのか不安になります。空気は余りにも昔からあるが故に、かえってその存在の貴重さを忘れがちになるのかもしれません。しかし生命の進化のある段階で植物が発生し、彼らが行う光合成という行為の結果として大気中の酸素の濃度がひとつのレベルに達したとき、私たちの先祖である動物の元祖が誕生したことを決して忘れてはなりません。また、現在問題になっているオゾン層の破壊
タイのマングローブ林。1961年から1988年までの27年間で、林面積は50%消失した。原因の65%は水産養殖、特にエビの養殖。そのほとんどは日本に輸出される。
についても同じことが言えます。私たちはとりあえず目に見えないものには直接的な脅威を感じなくなっています。しかし目に見えるようになってからでは遅いのです。自然破壊から受ける影響は、あるポイントを超えると加速度的に増加することはあまり知られていませんが、とても重要な事実だと思います。次のようなたとえを考えてみるとよくわかるはずです。

現在も私たちは海を汚染し続けていますが、ある汚染物質を媒体として繁殖する有害なプランクトンが大量発生したとしましょう。私たちがその繁殖源を確定できないうちに、彼らが爆発的な増加をするとします。プランクトンの繁殖方法については周知の通りですが、ここではわかりやすく一日で2倍に増えるとしましょう。彼らが自己破滅しない条件が整い大量発生を続け、世界の海の1%が占領された時、人類に残された日数はあと何日あると思われますか。なんと、1週間後には地球上の海はすべてそのプランクトンに覆われてしまうのです。そうなればもう人類に生き残る道は残されていません。まあこの話は余り現実的ではありませんし、科学というよりも寓話としての意味合いが強いのですが、決して笑い話ではないことがおわかりいただけると思います。

たちにできること
地球環境の危機が叫ばれ始めてから久しく時間がたちました。限られた国ではその効果は徐々に現れているようですが、地球全体で見た場合、日々その破壊は続いているのです。しかしただ単純に、地球が汚れるから工業化は罪悪である、全ての開発を中止しろと声高に主張しても、問題が解決するわけではありませんし、私たちの生活を原始の昔に戻すことも現実的な話ではありません。ここで問題となってくるのが国と国との間の貧富の差を中心とした南北問題であることは、間違いない事実だと思います。

私たち1人が移動するために1台の車を使うと、どれほどのガソリンを消費するのか。次世代、次次世代に対して、私たちにできることはあるはずだ。
例えば、現在の私たちの生活に自動車というものは、全く欠かせない移動手段になっています。一人一人が消費する石油量は、ある意味では微々たるものですから、車を走らせているときに、そのことが地球の温暖化に悪影響を与えているとはほとんどの人が感じていないでしょう。もちろん私自身も全く考えていません。しかし地球の温暖化に、化石燃料が与える影響は今後無視できないものになってくるというのは、ある意味で常識となってきています。ところが一方で、原油の輸出がほとんどその国の唯一の外貨獲得手段となっている中近東諸国があるというのもまた現実なのです。また、数年前、環境重視という側面からラワンを原料とするベニア材の使用を制限して、針葉樹ベニアの利用を促進しようという動きがありました。東南アジアの国々にとって、木材の伐採は重要な産業のひとつです。私たちが自然環境の保護の立場から南洋材の使用を禁止したとしても、彼らにとってはいわば生活がかかっているのです。

もっと身近な例で考えてみましょう。私たちは熱くなると冷房を、寒くなると暖房を快適な生活のためにという理由でいとも簡単に使用します。特に夏の冷房は快適な生活というレベルを通り越し、ずっと室内にいる人間は防寒のための用意をしなければならないほど、温度を下げて設定することが多いようです。そして当然室内を下げるのに使うエネルギーはほとんどが電力ですし、室内の温度は外気に放出され、さらに外気温を上げるという悪循環を招いています。かくいう私も人一倍暑がりで、夏はクーラーなしではいられないという生活をしていますから、大いに反省しなければなりませんが、自分の生活の中でちょっとした我慢をすればそのほとんどが省エネにつながるということは、気がついてみると至極当たり前のことなのです。

●不経済運転による無駄な燃料消費の例
不経済運転の例 無駄に消費される燃料
アイドリング 10分間で140cc 約1440m走れます
急発進 10回で120cc 約1240m走れます
急加速 10回で120cc 約1240m走れます
空ぶかし 10回で60cc 約620m走れます
減圧タイヤでの走行 50kmで130cc 約1340m走れます
不要荷物の載積 10kgで400cc 約4120m走れます
自分で金を出したエネルギーをどう使おうと勝手だという意識が、地球全体に負担をかけている。クルマだけでなく、歯磨き中の水の出しっぱなし、人のいない部屋の灯りなど、工夫できる点は山ほどある。
このように気球の環境を守って行こうという運動は、程度の差はあるものの、今までの生活をある部分で我慢しなければならないということです。個人のレベルでは、現在享受している生活の利便性、快適性をどこまで犠牲にできるのか、制限しようとする覚悟をするのか、そして地球規模で考えたときには、国と国との利害関係をどこまで協調し得るのかという、かなり難しい話であり、簡単には結論の出る問題ではないかもしれません。しかし、そのときお互いの立場を尊重しつつグローバルな視点をどう持ち続けるのか、政治家や官僚だけでなく地球の住民の一人として、私たちも『創造主』に試されているのだということを、あらためて考えなければなりません。幸い私たち人類には、他の生物とちがって記録という行為によって知識を蓄積できることができます。過去の知識の蓄積を有効に利用しながら、将来の地球環境のために何をすべきかを、私たち一人一人がそれぞれのレベルで常に考えることが、これから人類が生き残っていくのに絶対に必要なのです。

いつか遠い将来に、21世紀は環境の世紀であったと評されるようになりたいものだと考えています。■


参考文献
・ 「いま地球に何が起こっているか 21世紀の地球・環境学」 横山 裕道著/ぴいぷる社
・ 「2時間即決 環境問題」 本間 善夫著/数研出版
・ 新・今「地球」が危ない /GAKKEN MOOK


Homeページトップへ