みなさんが仕事へ出かけるとき、そこには、道があります。
この道は今では、私たちの生活や経済活動に欠かせないものとなっています。
道は人々のくらしや地域社会を支え、
その上を多くの人、もの、情報が行き交い、歴史や文化が生まれ育ってきました。
私たちの身近にある道について考えてみましょう。


参考:「なぜなぜおもしろ読本」 褐嚼ン技術研究所 編著 山海堂発行
写真:「写真集・道」 ブティック社

新潟県松代町。棚田をうねる一本道。川のようだ。撮影:前田真三
一番初めは、人が通った跡が道になった

大昔、人々は狩りをするために「けもの道」をたどりました。山林の中の道はしだいに踏み固まって、人の道へと変わっていったのでしょう。弥生時代になると、イネ(お米)の栽培が行われるようになり、人々はきまった土地に住むようになりました。たくさんの村ができ、村と村の間では物を交換するために、人が行き来するようになりました。人が通ったり物が運ばれて、だんだん道ができていきました。


今の道の基礎になった、七道


「大化改新」のあと、政治のしくみや法律が新しく整えられました。大和朝廷は地方を支配するため、日本を都に近い畿内と七つの地域に分け、それぞれの地域をめぐる七つの道を定めました。この七つの道は「七道」と呼ばれ、畿内をのぞく諸国を7つの区画に分けたものを言います。東海道・東山(とうさん)道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海(さいかい)道の7道あり、都を起点として幹線道路が整備されました。

ずっと後の時代になって、主な鉄道の線路や高速道路が、ほぼこの七道に沿ってつくられています。こんな昔に日本の交通路の基礎ができていました。
北アルプス白馬杓子岳山腹。山腹に2本の道が刻まれている。撮影:白籏史朗
京都高台寺前の石塀小路。雨にしっとり濡れて美しい。撮影:浅野喜市
沖縄県竹富島。真っ白な道は珊瑚の砂だという。撮影:薗部 澄
1954年の群馬県松井田町坂本宿。旧中山道と碓氷峠の交差点。撮影:桜井栄一
乗鞍スカイライン。山頂からは槍・穂高が見られる。撮影:山梨勝弘
アラスカのクマ道。サケをめがけてやってくるクマがつけた道。撮影:吉野 信
愛媛県上浮穴郡美川町。雪の桑畑に白い道がS字に伸びる。撮影:武田祐作


道にはじめて駅ができた!

大和朝廷からの命令を駅伝のように各地に伝えるために、道の約16qごとに駅がつくられ、馬や寝る場所、食べ物が用意されました。これを「駅制」といい、鉄道の駅もここからきています。今日では、国道などに「道の駅」がつくられ、地域の情報(名所など)を発信したり休憩する空間として利用されています。

奈良時代、都の平城京では貴族の間で仏教が大変盛んになりました。この時代に活躍した僧の行基(ぎょうき)は、庶民に仏教を広めるために、日本中を歩いてまわりました。そしてそのかたわらで、人びとのために橋や道、さらに「布施屋」という救済施設などをつくっています。

行基が道すじの広場に人びとを集めて仏教を説いた「辻説法」は、鎌倉・室町時代には説教節と言われるものに変わり、やがて三味線などの楽器も入った大道芸(道ばたで行われる芸)になっていきました。


道づくりのルールを決めた信長

鎌倉時代には、京都と鎌倉を結ぶ「東海道」が最も重要な道となりました。駅は「宿」とも呼ばれ、幕府の仕事をする人だけでなく、商人などの旅でも利用するようになりました。

後の、室町から戦国時代には、それぞれの大名たちが、自分の城を中心とした道づくりを行いました。
初めて戦で鉄砲を使った織田信長は、道づくりにも今までにない新しいルールをたくさんつくりました。まず、商業を発展させるため、街道にある関所をなくしました。それまでは大坂(今の大阪)から京都に商品を運ぶには、百数十ヵ所もの関所でお金をとられていたのです。関所がなくなり、商人たちは自由に行き来ができるようになりました。また、東海道の道幅は3.5間(約6.4m)とし、曲がりくねった道をまっすぐにして松や柳の並木を植える…などの道づくりのさまざまなルールを定めました。

その後の豊臣秀吉は、大坂城と伏見城間を結ぶ最短の道が必要でした。そこで力のある戦国大名の毛利一族に命じ、淀川左岸沿いに「文禄堤」(文禄時代につくられた堤防)をつくらせ、その上を道として利用しました。

江戸時代に入り、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の幕府直轄の「五街道」をはじめとした道路を整備、管理するなど全国的な道路網が整備されました。


追いつかない道路整備

かつて街道は、おもに人や馬が通る道でした。それが明治になると馬車や自動車が登場し、さらに戦後にはマイカーやトラックなどが走るようになりました。住宅の開発が進み、ベッドタウンから都市への通勤のための鉄道や道路が整備されていきました。また、団地とともに人々のあこがれだった自動車は、1970年(昭和45年)には4家族に1台のわりあいで持たれるようになりました。町外れにも、大きな駐車場のあるレストランやスーパーがしだいに増え、人々はマイカーに乗って訪れるようになりました。このように大量の自動車がせまい道にひしめくようになったのです。交通量が増えたことで、交通渋滞がおこり、住民は騒音や排気ガスなどの交通公害に困るようになりました。人々の努力でいったんは少なくなった交通事故も、今ではまた増え続けています。原因のひとつとして、自動車の急激な増加に、道路の整備が追いついていないことがあげられます。

私たちは毎日の暮らしの中で道路を使っています。産業資材や物資の供給にも道路は利用されており、経済活動にとって重要な役割を果たしています。道路の整備は、渋滞を解消してスムーズな交通を確保することだけでなく、周辺の地域により豊かな暮らしを生み出していくこともつながっていきます。道路は、人間の生活圏を形成するうえでなくてはならないもので社会生活基盤そのものであり、最も基本的なインフラであるといえます。


生活を支える水や電気、ガスの通り道

道路は物や人を運ぶなど、さまざまな機能を果たしていますが、もう一つの重要な役目として地下空間の利用があります。道路の下には、上・下水管やガス管、電線や電話線などが収容され、暮らしに必要な様々なものを供給しています。しかし、様々な管やケーブルを、それぞれ単独で埋設すると、その維持・管理のための工事も複雑になり、工事の回数や日数を多くする原因となります。そこで、地下に空間をつくって、これらの管をまとめて通すしくみを「共同溝」といい、道路を掘り起こさなくてもこの中に人が入って工事ができるようになっています。「共同溝」はこうした頻繁な工事を解消し、道路を掘り返さなくても維持管理する事を可能とするものです。また地下に直接埋めるよりも、地震などの被害を受けにくく、より確実な供給ができるようになります。これにより美しい街並みが保てるだけでなく、ライフラインの管理・整備時に道路を掘り起こす必要もなくなり、工事による渋滞も防げます。


はばひろ道路が火事をストップ!

道はまた、人々が集い、憩うための活動空間としても利用されています。路地は、近所のコミュニテイづくりの場所として、大通りは、まちのシンボルや祭りなどのイベントにも利用され、人々の出会いや触れ合い、ときには別れの場所にもなります。

そして、火事や地震などの災害が起きると救急・消防活動や避難路、緊急輸送路としての役割をもっています。

阪神・淡路大震災で分かったことがあります。それは火事のとき、道の幅が12m以上あると火が燃え移るのをくい止めることができる、ということです。道路は災害が拡大するのを防ぐための防災空間としての役割までもっているのです。

道路はあまりにも身近にありすぎて、まるで空気のような存在ですが、本当は私たちの生活の中でなくてはならない社会生活の基盤そのものなのです。

私たちの多くの先輩たちが道路建設に携わり、最初の高速道路建設から40年後には技術も進歩し、明石海峡大橋という世界最長の橋梁を建設しています。今後は的確に時代のニーズを把握し、社会生活基盤の整備を心がけていく必要があります。これまでの道を振り返ることで、新たな道の姿が見えてくるかもしれません。


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