日建協 50年のあゆみ
1954年12月、16加盟組合9,000人で結成された日建協は、2003年12月12日で50周年を迎えました。
現在、建設産業のホワイトカラー層を代表する組織として確固たる地位を占めております。
日建協は誕生以来、長い歴史のなかでさまざまな困難に直面してきました。
これらの困難を乗り越え、今日の姿があるのも諸先輩方の叡智の賜物と、改めて敬意を表したいと思います。
日建協結成以来、今日までの歴史を簡単に振り返りたいと思います。
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1. 結成までの足取り(1945年〜1955年) |
日建協の誕生前夜
1945年、日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏をしました。ポツダム宣言には、「日本国国民の間における民主主義的復活強化に対するいっさいの障害を除去すべし」となっており、占領軍はその年の10月11日、憲法改正、婦人参政権、労働組合結成、教育自由主義化などの指令を出しました。これを受けて、建設業にも労働組合がつぎつぎと結成され、いくつかの組合が集まり協議する場が設けられました。
結成までの足取り |
1946年 6月 |
関東土建労働組合協議会結成準備会発足 |
1948年11月 |
全日本建設工業職員労働組合協議会(全建)発足 |
1950年10月 |
全日本建設工業職員労働組合協議会解散 |
1950年10月 |
建設業職組懇談会発足 |
1953年 4月 |
日本建設産業労働組合関西地区協議会結成 |
1953年 5月 |
日本建設産業職員労働組合関東地区協議会結成 |
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1954年12月12日 日建協結成大会 |
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結成大会の綱領審議で、婦人代議員(鴻池)が要旨説明 |
上記のように、その時々の時代背景に対応しながら、形を変えて変遷をくり返し、その気運を暖めていきました。そして、日建協の旗印のもとに一本化するという、一歩一歩の努力によって、結成にこぎつけました。
間借りからのスタート
1954年12月12日午前10時30分、完成間もない国鉄労働会館で、日建協の結成大会がおこなわれました。16加盟組合の代表者、50余名の傍聴者の参加によって、数々の決議と関係諸労組の挨拶や祝電をうけ、厳粛ななかにも活気ある日建協の力強い第一歩が印されました。
結成大会では、組織の拡大、日建協と加盟組合および組合員の結びつきの強化によって、建設産業に働く職員の労働条件の向上をはかることが、スローガンと運動方針の骨子となり、今もわたしたちの羅針盤となっています。
発足当時は、東京青山の間組職員労働組合本部の一角に、机一個を借用しての仮住まいでした。 |
2. 軌道にのる(1956年〜1965年) |
日建協初代議長は安藤職組の内海氏
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内海日建協初代議長 |
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1955年1月18日、日建協は晴れて第1回中央委員会を開催しました。席上初代内海日建協議長(安藤職組)は「―前略― 労使協調の美名のもとに、経営の合理化という形で、労働強化や賃金ストップが発生すると思う。われわれはそれに対応する考えを育てつつ、われわれの拡大強化と漸進主義をとっていきたい。」と挨拶しました。
この挨拶にもあるように、当時は、デフレ政策に伴う人員整理や賃下げなどに対する対策が喫緊の課題でありました。内海議長は在任中である1956年3月、脳溢血のため突然逝去されました。内海氏は、前年度の第2回建築インター国際会議(ベルリン)に日本代表団団長として出席するなど、日建協初代議長として、多くの重責と試練への挑戦者となっていました。同年3月7日、故内海氏の告別式が東京築地本願寺で多数の組合員の悲しみのうちに、日建協と安藤職組の合同葬でしめやかにおこなわれました。
時短のさきがけ――第3日曜全休運動
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やっと権利を主張できる時代に |
1957年に開催された第5回定期大会にて、日建協は「第3日曜日全休運動」を運動方針に掲げました。1955年以降の建設ブームで工事量が激増したことに対する、人員の不足が大きな原因でありました。また当時は日曜日に作業をするのが当たり前で、逆に休むことのほうが異例だったようです。この取り組みも困難を極めましたが、諸先輩の粘り強い活動により、今日では「日曜全休」が産業内でも定着しております。そして今日、産業に働くわたしたちは「土曜閉所運動」を推進し、とくに「統一土曜閉所」に取り組んでいます。わたしたちの継続した取り組みにより、近い将来、この産業でも「土休はあたりまえ」としたいものです。みんなでがんばりましょう!
続々と日建協地方事務局(地協)が誕生
1958年に開かれた第6回定期大会では、日建協地方事務局設置が決議され、同年北海道、東北、関東、東海、関西、中国、福岡の7地方事務局が開設されました。これは、地区ごとの事務局が中心となって、労働条件の綿密な把握と、地域組合員の理解と連帯を深め、職場組織の強化と未加盟組合の加入を促進し、日建協組織を充実させ、建設産業に働くものの生活と地位の向上を目的とするものでありました。
その後、北陸、四国と地方事務局が開設され、1973年神奈川地協開設により、10地協体制となりました。地方協議会は、日建協結成以来、その地域性を活かしながら時代背景とともに活動を変化させてきましたが、2002年度の活動を最後に、その歴史に幕をおろしました。
1964年には、日建協結成10周年を迎え、24加盟組合、加盟組合員28,000人という拡大組織に発展していました。それはけっして平坦な上り坂をいくものではなく、起伏の激しい十年でありましたが、全国規模の組織となり、賃上げの同一歩調、労働時間の短縮、青年婦人のつどいと職場会への働きかけという、産業に働くものの団結への努力は継続してなされていました。
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3. 新たな前進めざして(1966年〜1975年) |
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1968年 賃金ポスター |
日曜の休みを訴える
初めてのポスター |
賃上げ共闘
1965年には、賃金要求をつくる段階から、各加盟組合が協力し合い、要求貫徹のための共同歩調をとることが議決されました。共闘準備会では、「賃上げ共闘ポスターの公募」「会社回答指定日の設定」「統一ワッペンの着用」などが決定されました。以後、「同一歩調」を進めていくうえで画期的な方針でありました。
「日曜は休ませろ」の日曜全休運動
また、時短活動についても、組合員の深刻な超過勤務実態を踏まえ、これに加盟組合同一歩調で立ち向かっていくため時短連絡会議が設置され、以後の時短活動に大きな布石が打たれました。建設産業に働くものの労働時間は、積年の時
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第44回メーデー(1973年5月1日)マスコミにも取り上げられた「日曜は休ませろ」のノボリを立ててデモをする組合員 |
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短運動の努力にもかかわらず、短縮されるどころか、逆に増加する傾向にありました。日建協時短会議においても、各加盟組合の取り組みをもとに、超過勤務枠撤廃、内外勤勤務時間統一、土曜半休、日曜全休などを制度要求として、さらに積極的に取り上げて活動していました。併せて、友好産別への対外的な支援要請、および経営者団体、発注者先への要請活動をおこない、着実に成果をあげました。特に「日曜全休」の確立については、2月、6月の日曜全休実施月間の設定、これの実施面における障害要因の把握と排除、職場討議における組合員の意識の高揚と相まって活動が盛り上がったことは日建協20周年史にも特筆されています。
対外アピールでは、メーデーの中央会場をはじめ、各地方会場において、日建協の黄色地に「日曜日は休ませろ」と書いたノボリが異色をはなち、朝日新聞や産経新聞に掲載されました。
旧盆を「夏休み」に
日建協で夏休みにしようと提唱してきた旧盆(8月14日〜16日)の夏季休暇制度も4年目を迎えて大きな成果をあげました。33加盟組合中、29組合が要求し、ほぼ要求に近い夏季休暇を制度面で獲得できました。その他、所定内労働時間の短縮、慣行時間の協約化、新入社員の有給休暇増など成果を積み重ねました。
イメージアップのための用語改善運動
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1966年10月、各方面へ要請活動をおこなう三役 |
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このころの建設産業は封建制が強く、イメージ的には決して良くありませんでした。ラジオ、テレビで事件が報道されると、「容疑者は一見労務者風」という修字句が入るほどでした。日建協は、1971年に「用語改善案」を作成し、官公庁、新聞放送各社、建設関係労組などへ、要請をおこないました。この結果、民放労連では傘下の組合をつうじて、春期の番組改編にあたって協力を訴え、また全建でも機関紙をつうじて紹介してくれました。今日では、土方、労務者などの用語はほとんど耳にすることもなく、このことは、日建協の活動の成果と言えます。
建設大臣と会談
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集会後、夜の銀座の中心街を提灯デモ行進する日建協の仲間たち。 |
1973年2月23日「日曜全休」の強力な行政指導を要求するために、当時の日建協三役は金丸建設大臣(当時)と直接会談をおこないました。日建協では大臣への直接要請は初めてのことでありました。辰巳議長(清水職組)から、建設大臣に要請書を手渡し、建設産業における日曜全休の実態、いままでの日建協の取り組み、監督官の不在のなかでおこなわれている日曜就労の不当性を訴えました。大臣は開口一番、「週休二日制が進められている最中に、こんなことがあるのか」とあきれた顔で、「私の関係の部署に伝え、処理するように行政処置をおこなう。理屈なしにもっともなことだ。わかった。週休制がちゃんと確立されてから2日制をやれといいたい。日建連にも伝えよう」と約束したそうです。この会談内容は、毎日新聞や建設通信でもとりあげられ、建設業の休日の実態が大きく報道されました。同年3月20日、建設大臣と労働大臣が会談し、建設業の日曜・祝日全休制を推進することを決定しました。これは、日建協が展開した各官庁への強力な要請行動、建設大臣との直接会談などによる大きな成果でありました。
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4. 転換期をむかえる(1976年〜1985年) |
新たな大同団結めざして
日建協第40回定期大会は、組織上の問題を抱えての幕開けとなりました。日建協は、建設産業に働く職員労働者の大同団結を旗印に紆余曲折を経ながら拡大を続け、結成20周年をむかえていました。しかしながら、加盟組合の歴史も多様で、考え方や活動の仕方もまちまちであり、日建協に対する期待感もさまざまでした。このような状況の中で、日建協の内部矛盾も芽生えてきたものかもしれません。
しかしこれを契機に、大同団結をさらに図るため、「第40回大会決議文」が採択され、今日まで続く、日建協結成時の基本理念が再確認されました。
日建協5原則
1.日建協は「共通問題を解決する場である」ということ
1.日建協は「単組の自主性を最大限尊重すると同時に、協議体としての連帯性」をも高め
るものであること
1.日建協は着実な前進のため、「漸進主義」をとること
1.日建協は各単組の内政には、一切干渉しないという「内政不干渉主義」に徹すること
1.日建協は、みずからの自主性と主体性を堅持するために、いかなる党派にも属さない
「不偏不党の立場」をつらぬくこと |
「Compass」誕生とリニューアル
1984年には、結成以前から機関紙として親しまれてきた「日建協ニュース」の名称が「Compass」に変更され、現在に至っています。この名前の由来は、新しい組合活動のあり方を模索し、魅力ある産業づくりに取り組む日建協にとって、進むべき方向を見出す「羅針盤」にとの願いをこめて命名されたそうです。このころはまだ発行当初同様新聞形式でしたが、1994年新年号(Vol.691)から現在の冊子形式にリニューアルされました。
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5. さらなる飛躍をめざして(1986年〜2002年) |
ゆとりのために時短に取り組む
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1993年4月22日 日経から表彰を受けた時短中吊り広告 |
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1980年代後半、日本は貿易黒字に依存していた経済から内需拡大型の経済へと構造転換が叫ばれ、諸外国からはこの貿易不均衡の要因として日本人の長時間労働が批判されていました。これらの情勢のもと、国をあげて「年間総労働時間1800時間」の達成に取り組んでいく気運が高まっていました。
日建協では、このような時代背景を受けて、1989年に「1993年までに年間総労働時間1800時間を達成する」との目標を掲げた中期時短方針「ゆとりプラン93」を制定しました。このプランは建設産業として初の時短行動計画であり、時短活動の意義と方向性を示したものでありました。その後、日建協は「ニューゆとりプラン98」、「中期時短方針2002」と中期的な時短方針を掲げ、活動を展開してきました。
今年度は、「中期時短方針2002」の総括と、新たな時短方針を策定するために、時短専門委員会を立ち上げ、中期的な活動方針の策定に取り組んでいます。
バブル経済とその崩壊
バブル時代に始まった日建協の近年は、社会・経済情勢の急激な変化のなかにあり、加盟組合とも試練の時代であったといっても過言ではないと思います。世間がバブルで活況を呈しているなか、建設産業もその中で繁忙期を迎えました。しかしその後にあったバブル経済の崩壊、産業全体を揺るがすような一連の事件で、産業界全体が根本を問われ、変革を求められました。産業全体を取り巻く環境が依然として厳しい中、私たち自身が自分を見つめなおし、正すべきところは正し、発すべき意見は発さなくてはならないと思います。
雇用問題への取り組み
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糸井事務所デザインのポスター。切り抜くと作業着と普段着を着せ替えられるようになっている、アイデアポスター |
建設産業を取り巻く環境が一段と厳しさを増すなか、日建協の産業政策活動では、雇用に関する問題を最重点課題とし、雇用のセーフティーネット整備について関係機関に対し要請を続けるとともに、雇用の受け皿を確保するため、雇用の創出にむけて取り組んでおります。2002年度には、厚生労働省に対して改善要請を続けてきた「建設業労働移動支援助成金」の雇い入れ期間にかかわる支給要件が、7日から3ヶ月に緩和されました。
社会にむけてイメージアップ
1991年には、新聞広告「土・日に、あそぼうね」(糸井重里氏のコピー・デザイン)を掲載するなど、その活動の幅を社会に広げ、土曜全休運動を推進していました。「土休」に関しては、現在でも産業が抱える問題であり、私たちが継続して、力強く取り組まなければならない課題でもあります。
今年度、日建協では、日本の基幹産業に働く私たちの意見を、広く一般社会へ発信するとともに、活動に対する理解を求めるために、組織外広報に重点をおいて活動しております。一人ひとりの“声”を結集し、魅力と誇りのある産業の創造をめざして、がんばりましょう!
苦渋の決断――地方協議会の廃止
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地協主催のセミナーや会議、行事なども多くおこなわれた。青婦活動が盛んだった頃にはカップルもうまれた。 |
前述にもありますが、2002年度の活動を最後に地方協議会が廃止となりました。2002年度、1年間をかけて、今後の日建協活動全体を見直したなかで、活動の重み付けの面からも、また加盟組合員の急激な減少による人的不足や財政的な制約という面からも、地方協議会を廃止せざるを得ないという結論に達しました。地協活動は日建協結成以来、日建協活動の重要な一翼を担ってきました。その歴史にピリオドを打つことは、現在組合員である私たちにとって苦渋の決断でありました。
現在も、私たちの労働条件の向上を阻害している産業の抱える課題は、山積しております。日建協は、新たな半世紀を歩みだすにあたり、2002年度に行なった活動の見直しにもとづき、あらたな活動方針を掲げ、2003年度の活動をおこなっています。これからも日建協は加盟組合員のみなさんとともに、一歩一歩着実に歩んでいきます。この歩みの原動力は、半世紀の歴史が物語るように、いつの時代も一人ひとりの組合員です。当事者意識を持ってともにがんばりましょう!■ |
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