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私はビートルズが大好きです。
一人でビートルズの曲を聴いていると、なぜかし ら涙が出てきます。
聞いているうちに、その曲にまつわる私自身の様々な思い出 がよみがえり、また、涙が出てきます。
今回は彼らの活躍の陰に見え隠れし、彼 らに多大な影響を与えた人物のエピソードを交えて、
ファンの方には懐かしく、 またファンでない方には興味を持って、
20世紀最高の音楽家であるビートルズを
少し身近に感じてほしいと思います。
日建協議長 栗本 毅

私とビートルズとの出会い


左からポール・マッカートニー、リンゴ・スター、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン
 私とビートルズの出会いは、中学生の頃、昼休みの校内放送で必ず流れるビートルズの曲(LP THE BEATLES 1967〜1970 通称青盤)でした。当時は、洋楽に未だ馴染みの薄い頃であり、中学生の私にとって深夜放送や英語の曲を聞くだけで、背伸びをしたような気持になりました。しかし、まだまだレコードを買うような環境になく、裕福な友達や友達の兄姉(お父さんだったのかもしれない)からカセットテープを借りたりして、モノラルカセットレコーダーで聞いていました。曲中でのハーモニーからジョンとポールの声を聞き分ける練習や、カセットから流れる曲の歌詞を何度も巻き戻しながら、英和辞書を片手に、ノートに控えたりしていました。(ラジオからの録音なので、歌詞カードが無いため)

 学校では、下敷き代わりのカードケースの中に、雑誌を切り抜いたビートルズの写真を挟んだりしていました。このように寝ても覚めてもビートルズでしたので、当時は校内でも無類のビートルズ好きとして有名でした。高校生になってからは、ラジオ放送(特にFM放送)を雑誌「FMレコパル」等でエアチェックして、カセットテープに録音していました。そして、ある日ついに全214曲全てを録音したときのあの感動は忘れもしません。(最後はジョージ作のThe Inner Lightでした)

“Let It Be”
 その後社会人となって、全アルバム16枚が収録(全214曲収録)された「ザ・ビートルズCDボックス」や、彼らの足跡を綴った「ビートルズ・アンソロジー」(限定出版で未公開・秘蔵写真や映像が満載の本とDVDの両方)など、小遣いをコツコツ貯めて家計のやりくりに苦しむ嫁さんの顔色を伺いながら買っています。(自分のなけなしの小遣いなのに…)

 一人でビートルズの曲を聴くのは、まさに至福の時ですが、ヘッドフォンをして、一人で泣いているお父さんは、どうも不気味に思われているらしく、家族から気味悪がられ、距離をおかれています。(ちなみに私の家庭は円満ですので、ご心配なく…トホホ)
 楽しい(?)私の想い出話はまだまだ尽きないのですが、この辺にしておきます。

ビートルズになり損ねた男の悲劇


●スチュアート・サトクリフ
左からハリスン、サトクリフ、レノン
 アートスクール時代のジョン・レノンの親友であったスチュアート・サトクリフは、早くからその絵画の素質が認められていた。音楽経験はないのだが、美術展に飾った絵が売れたお金で親友ジョンに勧められるがまま、弾けないにもかかわらずベース・ギターを買わされ、60年1月(当時19歳)からシルヴァー・ビートルズ(ビートルズの前身)のべーシストに収まった。ちなみに、ビートルズ(BEETLES)というグループ名の立案者は彼で、後にジョンが(BEATLES)に改名した。初めてのハンブルク公演の際に、そこで出会った女性(後にトレード・マークとなったマッシュルーム・カットの生みの親でもある)と恋に落ち、61年にはグループを抜け、ハンブルクの国立芸術大学で本格的に美術を勉強している途中の62年4月、脳出血のためにわずか21歳で亡くなっている。(以前のケンカの後遺症が原因らしい)

●ピート・ベスト
左からハリスン、マッカートニー、
レノン、ベスト
 ピート・ベストは、デビュー直前までメンバーだった。リバプールのカスバクラブのオーナーの息子であり、新品のドラム・セットを持っていることからドラマー不在に苦しんでいたシルヴァー・ビートルズに60年8月(当時19歳)に迎え入れられる。以後2年間リンゴ・スターに取って代わられるまでリズムの心臓部を受け持った。ビートルズが正式にレコードデビューする2ヶ月前にマネージャーのブライアン・エプスタインに事務所に呼び出されいきなりクビを言われた。理由としては、彼のルックスの良さに他の3人が嫉妬したなどの噂もある。ただし、彼の残した演奏を聞いてもリンゴとのプレイの差は明らかで、凡庸でシャープさに欠けるドラミングは交代が大正解であったようだ。

■私は思う
左は“Abbey Road”のジャケット。右は憧れのアビーロードを歩く筆者。
 初期のビートルズにとって彼らとの出会いは大きな影響を与えられた。ビートルズというバンド名やトレード・マークのマッシュルーム・カット、襟なしジャケットは、スチュワート(もしくは彼の彼女)によるところが大きいし、当時高価なドラムやベースを持っていた彼らが加わったからこそ、デビューを果たすことができたのである。では、もし彼らがそのままビートルズの一員であったならば、その後のビートルズの成功はあっただろうか。いや、それよりも、当時の彼らには、その後の活躍など思いもよらなかっただろう。後にスチュワートが若すぎる死を遂げたり、ピートが公務員として役所勤めをしていることなどは、その後のあまりの人生の違いに、運命を感じずにはいられない。ただ、ある時期に同じ夢に向かって、若者がチャレンジする思いは、自分自身のある時期に重ね合わせたりして、懐かしく思えたりする。私の現在も“運命”なのだろうか。  

5人目のビートルと言われた男


●ブライアン・エプスタイン
 61年10月28日、18歳の少年がリバプールのレコード店にビートルズがバックを努めた「マイ・ボニー」というレコードを買い求めに来た。その時に即座に答えることのできなかった店主であるブライアン・エプスタインは、その後もこのレコードを買い求める客が相次いだため、それがきっかけでビートルズというバンドに興味を持った。すぐにビートルズのステージを経験した彼は、62年の1月24日には正式にマネージャーに就任した。その後、ビートルズのBBCラジオ出演やEMIとのレコーディング契約に奮闘し、ついに62年10月5日にデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥー」が発売となった。

優れたレイアウター、エプスタイン
 ブライアン・エプスタインは、1934年にリバプールに生まれた。家具店を営む中流家庭に育ち、経済的には不自由なく育ったが、勉強嫌いで学校を7回も変わる落第生だった。デザイナーになろうとして父親に反対されたため家業を継いだが長続きせず、元来の芝居好きが嵩じて俳優を目指しロンドンに向かった。しかし、恷ゥ分以外の人間にはまったくの興味を抱かず、敗北を異常に恐れる摧o優という人種に失望し(本人の弁)、再び家業を継ぐ決心をし、リバプールに戻った。その後レコード店の経営者となり、前述の運命の出合いが訪れた。

 マネージャーになってからの彼は、メンバーにステージでの態度や言葉使いを改めさせ、気の向くまま、あるいは客の望むままに演奏していた1回のステージでの曲数を減らし、演奏時間も短縮させた。髪型もリーゼントからマッシュルーム・カットに、服装も皮ジャンから襟なし服へと、アーティスト・イメージを清潔なものに変えていった。イギリスで人気を得た後、ポップミュージックに対して極度に閉鎖的だったフランスへの市場拡大を図った。そして十分な下準備を行なった後にアメリカへ目をむけた。ケネディ空港に多数のサクラを用意させ、当時怩アれに出れば一流揩ニ言われていた「エド・サリィバン・ショー」やカーネギ・ホールへの出演は、エプスタインのユダヤ人脈が効を奏したとも言われており、シェア・スタジアムでのコンサートでは、当時最高観客動員記録の55600人を記録した。他にも映画やプロモーション・ビデオなど映像メディアの活用や、前述のような大規模なスタジアムでの公演をはじめ、今では当たり前のように行なわれているが実はエプスタインのアイディアを元に広げられていったことは余りにも多い。

“Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band”のジャケット用に修正する前の写真を使用したポスター。マハトマ・ガンジーなど、ジャケットでは消された顔もある。
 しかし、ビートルズがツアーを辞めてしまうとマネージャーとしての仕事も少なくなり、疎外感を感じるようになったエプスタインは、67年の8月27日にドラッグの服用過多により32歳の若さで死んでしまう。「確実にある章の終りを意味する」とは、エプスタインの死に際してのジョージ・ハリスンの言葉であり、「エプスタインの肉体は死んだが、彼の精神はいつまでも我々と共にある」とはジョンの言葉である。エプスタインにとって、ビートルズと言う存在は、自分が追い求めてきた理想、芸術的価値観などを具現化してくれる唯一の存在であり、挫折の果てに辿り着いた唯一のしかしこれ以上ない魅力的な存在であったようだ。俳優として自分が表舞台に立つことに挫折した彼は、自分の夢をビートルズに託したとも言える。

●ジョージ・マーティン
 前述のようにデビュー前のエプスタインの執拗な売り込みに対して、ビートルズの新鮮さ、音楽に対する情熱、むき出しのままの演奏に何かを感じ取り(のちに本人は一目惚れだったと言っている)、その才能をいち早く見抜きレコード会社と契約させたジョージ・マーティンは、ピート・ベストとリンゴ・スターとの交代にも助言を行なった人物である。ロンドンで生まれ、家は貧しかったが、音楽好きだったマーティンは、音楽院で作曲、楽器、指揮などを学んだ後、レコード会社に音楽プロデューサーとして入社している。クラシックやジャズなどのレコード作りを手がけ、その後のビートルズとの出合いが彼の才能を大きく開花させた。最初のレコーディングの時から、ビートルズに音楽とは何たるかを教え、スタジオミュージシャンとの付き合い方からジョージのギターの弾き方に至るまで様々なアドバイスを与えてきた。(ちなみに、ビートルズは、まったくと言っていいほど譜面が読めなかった)

左からジョージ・マーティン、マッカートニー
 メンバーのそれぞれが自分の曲のイニシアチブを取るようになった後期でも、音楽的なアドバイスをする機会は減っても、相変わらずマーティンがレコーディングの総監督を行ない、「レット・イット・ビー」以外の全アルバムの曲順とミックスの最終決定をおこなっていた。その後、彼は怎Tー揩フ称号を与えられたイギリス音楽界最高のプロデューサーと言われ、近年では、エルトン・ジョンが歌ったダイアナ妃追悼ソング「キャンドル・イン・ザ・ウィンドウ1997」をプロデュースしたことは、1000万枚以上の大ヒットとなった割に、知られていない。

■私は思う
 このように、彼らはもはやビートルズの一員であるといえるほどの深く重要な関わりである。当然彼らなくして成功はありえなかっただろうし、彼らとの出会い自体も、他の人(エプスタインの店にレコードを買いに来た少年等)との出会いがもたらしてくれたものであることを考えれば、人との出会いとは不思議であり、何気ない出会いが一生を左右する(時には歴史をあるいは国家を左右する)ほど大きいことなのかもしれない。人には必ず自分に大きく影響を与えた人がいるのではないだろうか。皆さんにも心当たりはないだろうか。あなたにとって、ブライアン・エプスタインやジョージ・マーティンは誰?

ビートルズを取り巻く女性のお話


●オノ・ヨーコ
左からヨーコ・オノ、レノン、
マッカートニー
 オノ・ヨーコ(1933年生まれ)は、父は横浜正金銀行(現東京三菱銀行)のサンフランシスコ支店副頭取、母は安田財閥の創設者安田善三郎の娘であり、裕福な小野家の長女として生まれた。小学校から通った学習院大学の哲学科を1年で中退し、名門のサラ・ローレンス大学に3年在学したがドロップ・アウト。57年に作曲家一柳氏と結婚する頃は、ニューヨークと東京の両都市をベースにしてコンセプチュアル・アートの創作に情熱を傾け、他には作家、詩人、ハプニスト、音楽家などの活動を行い、日本が生んだ国際的芸術家として活躍していた。63年に映画監督のアンソニー・コックスと2度目の結婚をし、ジョンは3番目の夫となる。ビートルズがコンサート活動を辞め、メンバーがそれぞれ新たな刺激を求めて行動をしていたころに、偶然ヨーコの個展でジョンと運命的な出会いを果たす。このとき、ヨーコは、ジョンがビートルズの一員だとは知らなかったが、そんなことはどうでも良かったようだ。その後お互いに親密な交際を続け、ジョンはヨーコに深く傾倒していった。この頃のレコーディングでは、ヨーコの影響を顕著に感じることができる。ジョンのビートルズに注がれた愛情がヨーコに向けられていったことにより、多くのビートルズファンやジョン・レノンファンのみならず、ジョンを除くビートルズのメンバーからも疎外され、ビートルズを解散させた女とまで言われたヨーコだが、ジョンの死後、最近では、ポールや他のメンバーとも和解し、その本来の存在感が認められるに至っている。

●リンダ・マッカートニー
リンダとポール
 リンダ・イーストマンは、裕福な家庭に育ち、少女時代は厳格な教育を受けたのだが、派手な生活とロックに憧れてニューヨークに出てカメラマンとなった。その後、地質学者メルビル・シーと結婚し、1児の母であったにもかかわらず、ポールに一目ぼれし、夫とカメラマンの仕事を捨てて、ポールとヴァカンスに出かけ、それっきり帰らなかった。この時期も、前述のジョンと同様、コンサートを辞めたメンバーが新たな刺激を求めていた時期であり、ポールとリンダの結婚式が、ジョンとヨーコの結婚式の8日前であったことも、決して偶然ではないように思える。ちなみにリンダもヨーコと同様、名門サラ・ローレンス大学を卒業している。

“Yellow Submarine”のジャケット
■私は思う
 このように見れば、オノ・ヨーコの場合もリンダ・マッカートニーの場合もさまざまな点でよく似ており、ビートルズの中の強烈な個性であったジョンやポールに多大な影響を及ぼすほど、彼女たち自身もまた、強烈な個性を持っていた。彼女たちに出会って以降のビートルズにも多大な影響を及ぼし、ビートルズを解散させた悪人扱いまでされた彼女たちだが、ようやく巡り合った愛妻の愛情や恐妻の協力があったからこそ、その後もソロ活動において、多くの名曲を生み出すことができたのではなかろうか。ちなみにビートルズの4人はいずれも離婚の経験者であり、ジョージ・ハリソンは大親友であったエリック・クラプトン(ジョージの名曲While My Guitar Gently Weepsのリード・ソロ演奏)との間が不仲になったのは、初婚の相手パトリシア・アン・ボイドを巡ってであることは、あまりにも有名である。(クラプトンの名曲“いとしのレイラ”は彼女をテーマにした曲?)  

ビートルズの魅力とは


 ジョン・レノン(1940年生)、ポール・マッカートニー(1942年生)、ジョージ・ハリソン(1943年生)、リンゴ・スター(1940年生)の4人は、デビューの頃は若干20歳前後の若者であり、解散時でさえ30歳弱でしかなかった。彼らの活動は、たった8年間弱という短い期間であったが、さまざまな人々との出会いを通して、やれることは全てやり切った満足感を感じていたのではなかろうか。

 このように彼らの半生を振り返れば、偉大な音楽家には違いないが、一つ一つの事象自体は、むしろ身近にすら感じてしまう。ビートルズは、確かに才能は豊かであり、天才的でもある。もちろん、弛まぬ努力もしているであろう。しかし、あまり表にはでないものの、やはり彼らが出会ったいろいろな人々の影響なくしては、彼らの成功はありえなかったのではないか。だからこそ、彼らの作った数多くの曲は、全て名曲であり、いつどのような状況でも聴く人をいろいろな局面に誘うことができる。楽しい時や悲しい時、寂しい時や腹立たしい時…。

 解散後数十年経っても、ドラマやCMに使われたり、カバーされる曲の多さでは、群を抜いており、新たな秘蔵録音テープが発見され、新曲が発表されたり、既に発表済の録音状態と違う音源のCD「Yellow Submarine」「Let It Be(Naked)」が発売されたり、新たな編集によるベスト盤が発表されたり、アメリカの独自編集のアルバムがリミックスCDとして発売されたり、またこれらのCDが必ずヒット、チャートを賑わすほど売れている。今の若者にも受け入れられているのである。私が中学生の頃にビートルズと出会った時のように。(うちの中学生の子供も聞いてくれるだろうか?)

 20歳代の4人の若者の本当に楽しそうに演奏している姿を想像しながら聞く彼らの曲は、私がいくつになっても、(64歳になっても)また、私の涙を誘ってしまう。あっ、また遠くから気味悪そうに子供が見ている…!


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MY BEST 10(2005年1月23日現在)
Your Mother Should Know ( LP Magical Mystery Tour) P
I Will ( LP The Beatles ) P
Wait ( LP Rubber Soul ) J、P
Here There And Everywhere(LP Revolver) P
All My Loving ( LP With The Beatles ) P
If I Fell ( LP A Hard Days Night ) J,P
Golden Slumbers 〜 The End ( LP Abbey Road ) P
She,s Leaving Home ( LP Sgt. Pepper,s Lonely Hearts Club Band ) P
Ask Me Why ( LP Please Please Me ) J
Think For Yourself ( LP Rubber Soul ) G  
(次点)You,ve Going To Lose That Girl( LP Help! )
J   JはJohn Lennon作 PはPaul McCartney GはGeorge Harrison作

参考文献
レコード・コレクターズ12月増刊号 ザ・ビートルズ コンプリート・ワークス@ 1962〜1965
レコード・コレクターズ1月増刊号 ザ・ビートルズ コンプリート・ワークスA 1965〜1967
レコード・コレクターズ1月増刊号 ザ・ビートルズ コンプリート・ワークスB 1968〜1970  
/発行 株式会社ミュージック・マガジン

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