現在の「国民の祝日」のような国家的な祝祭日が定められるのは明治時代にはいってからですが、祭日の原型となる祭祀などの儀礼自体は奈良・平安時代の貴族によって既に行われていた経緯があります。やがて武士の時代となり宮廷儀礼とは異なる武家の家祭や民衆の伝統的行事、さらには中国の節句の儀礼が合わさって、江戸時代、祝いを行う日として「節日(せちにち)」が定められました。左図に示す八つの節日は江戸幕府が定めた「五節句の式日の制」という法律により初めて定められた祝日です。むろん、この時代においても貴族による祭祀は行われていましたが、武士の時代を反映してか、「お家の繁栄」「立身出世」等に因んだ行事やしきたりが節日と結びつく傾向が強く、祭祀の日が祝日として民衆に定着することはありませんでした。
当時の社会には士農工商という身分制度が存在しましたが、節日の祝い事については身分の隔てなき共通行事として定着していたものと考えられ、また人々の信仰の拠りどころも山や川や田畑などの自然、台所のカマドから身につける衣服等の日常品にいたるまで宿るとされる「八百万の神々」にあったことから、節日には地方性に富んだ多種多様な祝い事が行われていたことが想像されます。
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隅田川花見/歌川国芳 |
明治時代になり様相が一変します。
明治6年に明治政府は西洋諸国と対等に付き合っていくため、暦を「太陰暦(旧暦)」から「太陽暦(新暦)」に変えました。これに併せて江戸時代の節日、五節句の流れをくむ伝統的な祝日を全て廃止し、新たに「祝祭日」が定められたのです。その背景には諸外国に引けをとらない強い国を創造するために必要な国民意識の高揚・集中の手段とされた経緯があり、当日、官庁や学校などでは厳粛な行事が催され、皇室による祭祀の儀礼を国民も共に行うべしとする祭政一致の国家主義を進めていくことが意図されたのです。しかし制定後しばらくは祝祭日が一般の民衆に定着することはなく、大衆は旧来の五節句や地域的行事に則った祝日を楽しんでいたとされています。
さて、この時代の祝祭日の特徴の一つは天皇崇拝との結びつきにあるといえます。明治6年に定められた祝祭日は、性格的には、すべて国による宗教祭祀儀礼の日とされる「祭日」です。そのうち「孝明天皇祭」「神武天皇祭」「天長節(明治天皇誕生日)」は天皇そのものを祭祀の対象としています。天皇を神々と国民との間にある特別な存在として位置付け、民衆もそれにならって共に祭祀の儀礼を行うことを通じて次第に両者の間で宗教的な序列が形成されていったと同時に、天皇自体も祀りの対象としたことにより神格化され、その存在が国民の精神的な拠りどころとなっていったのではないでしょうか。祝祭日における、このような儀礼を通じた国民意識の結集により国家主義は次第に強固なものとなっていきましたが、同時に旧来の「八百万の神々信仰」は完全に払拭され、祝日はそれまでの庶民的行事としての色彩を失っていったのです。
戦後「国民の祝日に関する法律」が公布・施行され、今の祝日の原型が形作られました。それは敗戦下の日本を統治していた連合国軍総司令部(GHQ)が、戦前までの国家主義的思想や様々な慣習を徹底的に排除し、刷新していくことを通じて民主主義の理念に基づく新しい独立国家を形成していくために行った様々な施策の一つとして行われました。またGHQは「神道指令」を出して従来までの神社の国家管理制、教育の場での宗教教育、国家・地方公共団体が行う宗教儀式を禁止したことにより、祝祭日を宗教祭祀儀礼の日とする考え方や天皇神格化の思想は排除され、旧来の祝祭日の多くは消滅しました。
かくして、明治時代より形成されてきた祭日の概念は一旦リセットされ、国民主権の理念に基づく新しい祝日として「国民の祝日」が誕生し、今に至るわけです。
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