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東京すなわち“江戸”は、徳川家康により構築された一大都市であり1603年(慶長8年)から、1868年(明治元年)までの265年もの長期にわたり、日本の国家統治をおこなっていた時代の日本の首都です。
徳川家康が、1590年(天正十八年)に江戸の地を選んだ理由は、風水的に最高の場所であるという説もありますが定かではありません。しかし、関東への国替えは、家康の独断によるものではなく、秀吉の命によるものであり、家康としても天下人である秀吉の命に逆らうこともできず従ったようです。
しかし、その見返りとして、百万石の加増や、自ら不利な関東を選ぶことにより、秀吉に対してイニシアティブをとることになるなど、家康のしたたかさが伺えます。
また、生い立ちからなる家康のしぶとさもあり、京から遠く離れた、地理的にも地形的にも何の益もない江戸を完璧なまでの一大都市に仕上げました。
しかし、私が個人的に以前から気になっていたのは、江戸という都市は、「風水都市」なのか、それとも映画「帝都物語」に見られるような「霊的防御都市」なのかという事でした。今回は、その疑問に少しだけふれるために、都内を散策してきました。
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家康は、江戸に入るとすぐに、領土の構築に取り掛かりました。
家康には、三代後(秀忠・家光)まで続くブレーンが居たと言います。それは、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)僧正と、金地院崇伝(こんちいんすうでん)の2人です。崇伝は政策担当としてその手腕を発揮していたそうですが、天海は、もっぱら宗教的なことに対して関与していたそうです。天海は、天台宗の高僧であり、天台宗は、日蓮の日蓮宗、親鸞の浄土真宗のもとになっています。最澄の比叡山延暦寺といえば、すぐに解るでしょう。
江戸の都市計画に深く関与していたのが、密教のお坊さん(それも高僧)なのですから、強烈なパワーと怪しさ(?)を感じる理由の一つなのではないでしょうか。
さて、江戸城の特徴は、お濠と道の形状が、螺旋状になっていることです。関西圏の人など、このぐるぐる回る東京の地理が解りづらいのではないでしょうか。ちなみに、現在、真ん中のお濠(内堀)は、今も残っていますが、中央から2つ目のお濠は、現在の外堀通りにあたります。その外側(3本目)が明治通りです。
一説では、この都市形状は、風水的に計画されており、江戸に入ってくる「気」をいったん渦巻きの中心(江戸城)に集めて、パワーアップしてから江戸市中に放出する風水システムとも言われています。
また、このお濠は、もちろん城を守るための防御でもありますが、一番の理由は、消費都市である江戸へ物資を補給するためのライン、つまり運河です。現在でも残っている最初に作られた江東区の小名木川(おなぎがわ)は、下総行徳から塩を運ぶためであり、最短で江戸城に物資を供給するために作られたバイパス運河の道三堀(日本橋川の原型)。更に、大消費地である銀座には、三十間掘(幅が三十間、つまり55mもある)が掘られ江戸の象徴的な風景となりました。開削工事ででた土砂は荒川と利根川の氾濫地帯の埋め立てに使われたそうです。
江戸の土木工事として有名な治水工事である利根川の改修についても、変わった説があります。毎年、氾濫をもたらし、民と国に多大な被害を与える利根川。まさしく、この治水のために行った工事も、鬼門から入ってくる暴れ龍“坂東太郎”(利根川の俗称)を鎮圧するためだったという説もあります。
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江戸の町を作り上げるにあたって、天海は京都平安京を手本としました。しかし、京都のようにすばらしい地形(密教的に)は江戸にはありません。そこで、天海は、呪(まじない)によって江戸を京都に変えようとしました。密教でいう真言※にあたり、呪文によって本来ないものをあるようにしてしまったのです。
その代表が、比叡山です。天海は手始めに、江戸に比叡山を作りました。とはいっても、山を作ったのではなく、現)川越大師星野山喜多院(関東天台宗総本山)を東叡山喜多院と改名し、家康が死去するまで、喜多院を東の比叡山としました。後に、江戸城の鬼門(北東)である上野に移し、東叡山寛永寺を開山しました。さらに、琵琶湖になぞって不忍池を作り、奈良の吉野山から桜を移植し、上野に聖地吉野山を作り上げました。これで、天台宗本山延暦寺に見立てた天台宗における東の総本山が出来上がりました。また、裏鬼門には増上寺をあてたそうです。増上寺は、もともと武蔵国貝塚(麹町紀尾井町付近)にあったそうですが、一時日比谷に移した後、江戸の拡張に伴って再度現在の芝に移転したそうです。
しかし、本来の裏鬼門の位置は、現在の山王日枝神社にあたります。日枝神社は、江戸城の前城主である太田道灌(おおたどうかん)が川越日枝神社を勧請したことから始まるそうです。それを家康が、紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守としたそうです。その後、秀忠が江戸城改築の際に、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようしましたが、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)に家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあてて、現在地に遷座したそうです。家綱は、四代将軍ですから、天海は関与していないことになります。
鬼門は密教で、裏鬼門には同じ密教の増上寺と、大山咋神(おおやまくひのかみ)を御祭神とする神道が祀られていますので不思議に感じますが、実は関係が深いそうです。大山咋神は名のとおり、大山の主であり、山王は山の王のことです。つまり、日枝山を支配する神をさします。日枝山は、比叡山のことで天台宗が比叡山に入った時に、大山咋神を守護神に祀ったのが、天台宗をベースにして成立した山王神道であり、天海の言う山王一実神道のことなのだそうです。家康が没後、神として祀られたのは、このような由来があったとされています。
※ 仏や菩薩の教えや功_を唱える言葉であり、言葉自体に力があるとされている。
サンスクリット語を音写したもので呪文と考えても良い
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さて、今回の特集は、パワースポットに行くことです。前段の中でも、皇居(江戸城)や川越大師喜多院や上野の寛永寺、芝の増上寺、更に日枝神社などが出てきました。また、家康ゆかりというと、没後最初に、遺骸が納められた静岡の久能山東照宮や、その後、東照大権現となって遷座され、天台宗によって祀られている日光東照宮があります。お近くの方は、今回の特集を機に、お出かけになられてはいかかですか。
その中で、今回、私が選んだのは、三代将軍家光の時代に、「江戸の活性化と庶民のお守りのために」江戸府内にある不動尊が割り当てられた「江戸五色不動」をすべて廻ることです。
五色不動とは、五行思想の五色(白・赤・黄・青・黒)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指し示す総称です。目白・目赤・目青・目黄・目黒の各不動尊のことです。
この五色不動も面白い噂があります。それは、天海が、江戸の町づくりの仕上げに、北から流れ込む東照大権現(家康の神号)からの繁栄エネルギーを江戸市中にまんべんなく行きわたらせるために置いたとされ、江戸城鎮護のため、四神相応の地にならって青を東、白を西、赤を南、黒を北、黄を中央として東西南北中央を五色で表したとあります。しかし、証明はされていません。青は青龍、白は白虎、赤は朱雀、黒は玄武ですから、それに倣っているともいえるのですが、場所と色があっていませんし、方角もバラバラです。
云われの謎も気になりますが、今回は深く考えず、疲れた体に「パワーを注入」するために、また、「江戸(=建設産業)の活性化と庶民(=労働者)のお守りのために」廻ってきます。
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最初は、五色不動の中で最も由緒の古い目黒不動です。JR目黒駅から、徒歩で15分くらい(東急目黒線:不動前駅からだと8分ほど)のところにある瀧泉寺(りゅうせんじ)に目黒不動尊は鎮座しています。
文化・文政の時代には「江戸の三富」と呼ばれる富籤(とみくじ)が行われていたこともあり、江戸庶民の行楽地であったそうで「江戸名所図会」にも描かれているそうです。落語の「目黒のさんま」は、このお寺の近くにあった休憩所(茶屋)が、舞台になっているそうです。
仁王門をくぐり、境内へと入ります。目の前には、本堂へ上がる男坂と呼ばれる急な石段があります。この石段の下、左方の池が、「独鈷の滝(とっこのたき)」です。(2体の龍の口から水が吐き出されている)。伝承では、慈覚大師円仁が寺地を定めようと独鈷(古代インドの武器に由来する仏具の一種)を投げたところ、落下した場所から霊泉が湧き出し、今日まで枯れることがないと言われています。本堂の裏(山頂)には、立派な大日如来像もあります。
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山門
(東急目黒線不動前駅からのルートが表参道になります)
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瀧泉寺本堂
(ジョギングしている地元の方に撮影してもらいました)
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本堂へ通じる石段、通称
“男坂”
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石段の左にある
“独鈷の滝”
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独鈷の滝にある
“水かけ不動尊”
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本堂の裏(山頂)にある
“大日如来像”
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東急田園都市線三軒茶屋駅からほど近い(徒歩5分くらい)にある最勝寺。この寺院は、寛永寺の末寺だそうです。通称「教学院(きょうがくいん)」、正式名称「竹園山最勝寺教学院」といいます。
本堂の本尊は阿弥陀如来で札所の本尊が、不動明王(目青不動)になっています。秘仏なので見ることはできませんが、駅前再開発で1996年に建てられた「キャロットタワー」の真裏にあるひなびた寺院なので趣があります。
ここで、面白いのは電車でしょうか?(パワースポットの紹介じゃないの?)
都営荒川線とともに都内に残っている路面電車形式の軌道線の「東急世田谷線」が走っています。路面電車といってもそのほとんどが専用軌道を走っているので、車と並走する荒川線ほどの趣はありませんが、車両は路面電車そのものなので、楽しいかもしれません。(余談です)
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山門
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不動尊が本尊の納経所
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境内(奥にあるのが本堂、本尊は大日如来です)
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3つ目は、目白不動が納められている金乗院(こんじょういん)です。正式名称は「神霊山金乗院慈眼寺」です。場所は、豊島区高田にあり、副都心線「雑司ヶ谷駅」、都営荒川線「学習院下」になります。日建協のある高田馬場から、歩いても20分ぐらいで着くでしょう。
目白不動尊は、もともとこの金乗院にあったものではなく、1キロほど離れた関口駒井町(現在の文京区関口)にあった新長谷寺(しんちょうこくじ)という寺院にあったものです。新長谷寺は、第二次世界大戦による戦火で焼かれ廃寺となってしまい、金乗院に移されたそうです。
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山 門
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本堂
(不動尊のお堂は、本堂の右側にあります)”
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まだまだ行きます。4か所目に移動です。
続いて、4か所目は赤目不動の南谷寺(なんこくじ)です。場所は、南北線の本駒込駅。駅の出入り口を上がると、すぐに本郷通りがあり、その向かい側に位置しています。
ここにある赤目不動も、もとからここにあったのではないそうです。もとは、駒込村の千駄木・動坂(現在の都立駒込病院付近)に、「不動堂」という草庵をおき、赤目不動としたそうです。
その後、「大聖山東照院」と称するようになりました。また、享保7年(1732年)には寛永寺の末寺となり、南谷寺の寺号を得ました。その後、第2次世界大戦の戦火で、本堂と不動堂は焼失しましたが、本尊は難を逃れ、現在の位置に移転したそうです。
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山門
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不動尊が祀られているお堂
(携帯じゃないと自分撮りは難しい?)
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本堂
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目黄不動2か所に向かいます。まずは、江戸川区平井にある最勝寺です。正式名称「牛宝山明王院最勝寺」で、ここも大正2年(1913年)に移転があってそうです。もとは、本所表町(現在の墨田区)にあり、開山は、貞観二年(860年)に慈覚大師が建立したものです。
不動明王は、木造で像高は、127cmあり、本尊として祀られていたのは、最勝寺の末寺である東栄寺(とうえいじ)だそうです。
なかなか不動明王本尊に参拝できないなか、このお寺は、隣にある寺務所から中に入り参拝することができます。
中に入ると、背筋が張り緊張感が生まれました。中央に鎮座する不動明王と、その前にある護摩焚き場。焚かれた日の中に鎮座する不動明王の姿は、さぞ勇ましいであろうと感じました。
また、ここには護摩焚き用の木が200円で購入できます。私も購入し、「厄除、産業発展 日建協 福島玲司」と書いて、奉納してきました。
次の護摩の日には、真言とともに焚かれるのでしょう。
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山門
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目黄不動明王が祀られているお堂
(手すりにマキマキスタンドで撮影)
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お堂の中の不動明王像
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境内にあった石碑
(最澄上人のお言葉だそうです)
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今回の「五色不動巡り」の最後になるのが、二つある目黄不動の一つ、三ノ輪にある永久寺です。この寺院は、何も資料がありませんし、残念ながらご住職にもお会いすることができませんでした。
しかし、目黄不動はどうして二つあるのでしょうか。気になって調べてみたのですが、どうも江戸時代には、目黒・目白・目赤の三不動しかなかったようです。目青がいつ頃から生まれたかは、記述もなく定かではありませんし、目黄不動が生まれたのも、五色不動という呼び名になったのも、明治以降のようです。
しかし、そもそも不動明王は、庶民から「お不動様」と呼ばれ親しまれていたのですから、明治以降になって、増やされたとしても決して悪い事ではないように思います。
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今回の取材の発端は、パワースポットというキーワードと江戸の不思議という個人的興味から始まりました。鬼門や裏鬼門、東照宮など基本的なことは雑学程度に知っていましたが、「江戸五色不動」というのが言葉は知っていたものの、その成り立ちや存在意義が、まったくわからなかったことによるものです。それに、“パワー”と“不動明王”が、妙にマッチングしていることも選んだ根拠の一つです。
今回の取材で感じたことは、徳川の歴代将軍は、「江戸の発展は、庶民の活性化である」とし、そのために、運河を作り、暴れる利根川を東に変え、庶民が集う場所を町の四方に置いたのでしょう。その結果が、徳川265年の繁栄と天下泰平の世を築き上げたのだと思いました。
やはり、指導者(=経営者)たるもの庶民(=労働者)を見据えなければ、国の発展はないとした考えに基づいた国づくりだったのではないでしょうか。
みなさんも、「休日を楽しく遊ぶ」いにしえの庶民の姿を浮かべながら、不動明王のパワー授かり、明日の仕事に生かしてみてはいかがでしょうか?
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各不動の住所
・目黒不動・・・瀧泉寺(天台宗)目黒区下目黒 3-20-26
・目青不動・・・最勝寺(天台宗)世田谷区太子堂4-15-1
・目白不動・・・金乗院(真言宗)豊島区高田2-12-39
・目赤不動・・・南谷寺(天台宗)文京区本駒込1-20-20
・目黄不動・・・最勝寺(天台宗)東京都江戸川区平井1-25-32
・目黄不動・・・永久寺(天台宗)台東区三ノ輪2-4-5
参拝行程
JR新川崎〜JR目黒〜(徒歩)〜龍泉寺〜(徒歩)〜東急目黒線:不動前〜東急目黒〜JR目黒〜JR渋谷〜東急田園都市線:渋谷〜同線:三軒茶屋〜(徒歩)〜教学院〜(徒歩)〜三軒茶屋〜渋谷〜副都心線:雑司ヶ谷〜(徒歩)〜金乗院〜雑司ヶ谷〜池袋〜丸ノ内線:後楽園〜南北線:本駒込〜(徒歩)〜南谷寺〜(徒歩)〜本駒込〜飯田橋〜JR総武線:平井〜(徒歩)〜最勝寺〜(徒歩)〜平井〜秋葉原〜日比谷線:三ノ輪〜(徒歩)〜永久寺〜(徒歩)〜三ノ輪〜秋葉原〜JR東京〜新川崎(到着)
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